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散歩(メモ)用カメラ

さて 現在の 私の「散歩用カメラ」は カメラというには少々役不足かもしれませんがカメラ付き携帯電話です.「散歩用カメラ」というより「メモカメラ」といったほうが適切かもしれません。
ドコモのSO505iで久々に常時身に付けているカメラの登場です。ご覧のように1/4インチのナットを接着して三脚が使えるようにしてあります。いつも持ち歩けるのはいいのですが ちょっとシャッター音が大きすぎるのが難点です。昨年8月、子供が出るジャズのコンサートでスナップを一枚撮ったときのことです。シャッター音のあまりの大きさに周りの客席の方の失笑をかいました。
docomo SO505iで撮りました。
 
 
 
私にとって 初めて いつも 持ち歩いていたカメラは 発売後間もなかった オリンパスペン でした。当時小学校6年生でした。 冬のある晩 父親に 連れられて 当時住んでいた 千葉県船橋市内のS写真館に行きました。そこの主人が 父に(仕入れ?)伝票を見せながら、「このカメラはプレミヤが付いているんだけどこの値段で結構。」 と言っていたのを今でも鮮明に覚えています。
このペンがそれで いつも ハンドストラップを付けて持ち歩いていたため ストラップ取り付け用金具(アイレットというのでしょうか)が擦り切れてしまい 落としてしまったことがあります。 いつだったか 同じような経験をされた方がいらっしゃるようで オリンパスに ストラップだけ持ってきて 「(カメラ本体を)落としてしまったから カメラをよこせ」と言ってきた人がある。と聞いたことがあります。
2台の初期型(左のペンは私が小学生の頃から使っていたもの。右はずっと後になって手に入れたものです。)ペンをご覧にいれますのは 日本カメラ博物館で米谷美久(まいたに・よしひさ)さんが講演されたときに 私の質問の答えに 初めから絞りプレートと同じ面に1.5mから10mの指標があり、距離リング内側に赤文字のFlashがあったと言われたからです。 確かに右側の138521にはこの文字があります。私が使っていた左側の155978にはありません。ということは一時 つけるのをやめた ということになるのでしょうか。
 
その後 ペンD、
これがそのペンDで子供のときからのものですから40年以上経っています。

ペンFT(下のペンFTも発売当初から使っていたものです。)と使いました。

オリンパスペンFが1963年3月16日から始まった 第9回フォトキナで発表されたとき 初日にライツの若い技術者が3人、米谷美久さんに 「すばらしい」とさかんに握手を求めてきたといいます。(朝日ソノラマ刊 カメラレビュー クラシックカメラ専科 No.58 p.133、 朝日ソノラマ刊 クラシックカメラ選書 No.26 「オリンパスペン」の挑戦 pp.169-170) 一昨年の夏 銀座 松坂屋で開かれた カメラ展にウィーンのライカ ショップという業者が ライツのスプリングモーター巻き上げ式 レンズ交換型ハーフサイズ 一眼レフカメラの試作品を展示していました。
このカメラの右後ろにちょっと見えている用紙に面白いことが書かれていました。
レンズを外した状態です。

ここでは私の「メモカメラ」の変遷を述べたいと思います。ペン、ペンD、ペンFTの後はアサヒペンタックスSPと続きました。歯科大学1年の夏休みに同級生と車で北海道旅行をしたときです。旭川アイヌ部落のわきの小さな川に車ごと落っこちてしまいました。近くにいた人が修理工場を手配してくれて車を川から引き上げ運んでくれました。フロントガラスが割れてしまったのでこれも近くの自動車解体場で合うフロントガラスを買ってきて修理工場に持っていきました。硬化するのに1日かかるといわれました。騒ぎを見ていた 北海道教育大学旭川分校の方が学生は帰省しているから寮に泊まれと言ってくれました。一日そちらでお世話になることを決め,まず近所の銭湯に行きました。出るときさっきは大変でしたね。と言って 銭湯の費用は要らないよ。と言われました。帰ってから寮長さんの子を連れて動物園に行きました。夕飯はお父さん(寮長)ご自慢のカレーをご馳走になりました。カメラを駄目にしてしまったので 替わりにミノルタQTという16mmフィルム使用のカメラを買い、旅行の残りはこのカメラで撮りました。帰ってからペンタックスを修理に出したところ、非常によい条件で交換品を販売して頂けると言われましたが、1964年発売とほとんど同時に購入した思い出深いカメラだった(ボディNo.1010832)ので修理していただきました。ペンタックスSPを愛用していた時期が長く続き、西麻布のペンタックスギャラリーへも何度も行きました。そこで配布される小冊子ミラーイメージは毎号楽しみでした。オリンパスからOM2がでたときそのTTLダイレクト測光という言葉になんとも言えない魅力を感じストロボ310と共に即購入いたしました。実は1972年に当時のチェコスロヴァキアに旅行に行ったときに同行のS君がOM1を持っていました.(私はペンタックスSPを2台とペンFを持っていきました。)その軽快さを「いいな」と感じており、またAEのOM2の発売の予告も承知していました。次の年、1973年には、前年頼まれた品物(ファイバーライト)を届けにチェコの古い温泉地(地名を忘れました)のホテルに行ったときに受け取ったコルナ(チェコスロヴァキアの通貨)でソ連製のホリゾントというパノラマカメラを買い、帰りに寄ったツェルマットでアルプスのパノラマ写真撮影を楽しみました。このパノラマカメラは故障知らずでよく写り、写真やさんに無理を言って四つ切の紙を細長く半分にして八つ切りの費用でプリントしてもらいました。今ではすべてオートなのでこのようなことはできないと聞いています。1976年、大学の小児歯科の医局に残ったときにカメラが好きな先輩が三人いました。一人は当時助教授だったG先生(後ちに長崎大学教授となられ先ごろ退官され名誉教授になられました。)、一年先輩で立川市で歯科医院を開業されているS先生で、お二人ともカメラを始めメカに強く、当時G先生はライカ、S先生はSプラナー120mm付きのハッセルブラッド500ELMとローライSL66をメインにニコンも使われていました。教室にはライツの顕微鏡撮影装置アリストフォトがスクリーン交換式のビゾフレックスⅢ型とライカM4-2と共にありました。そのようなカメラ環境の中で私のメモカメラはミノックス35ELになっていました。このカメラも随分使いました。絞りの形がよくありませんがとにかくよく写ります。こんなによく写るのならあの小さなミノックスもいいかもしれないとS先生が香港にいらしたときにミノックスCを買ってきていただきました。もうお一人は4年先輩のY先生で 後に横浜市で小児歯科医院を開業され、現在日本小児歯科学会でご活躍される一方ミノックスの研究もされていると お聞きしています。中村君これあげるよと35mmフィルムからミノックスサイズのフィルムを切り出すカッターをいただきました。後年G先生、Y先生、S先生の皆がかなりライカを収集されています。昨日もG先生から「ライカM4-Pの70周年記念ボディを買ったよと電話をいただきました。G先生はレンジファインダーニコンにも興味がおありで、本来のニコンSP,S2以外に、2000年に発売になったニコンS3の復刻版もお持ちです。私の持っているS型ニコン用の105mmF4にも関心があるようで,

50mmF1.1(外爪)をお譲りしたとき そのうちこちらもお譲りするように言われていました。ところで私のミノックスCですが 4-5回も使ったでしょうか技術の未熟さも手伝ってなかなか使い切れずメモカメラにはなりませんでした。それよりもむしろ中古で買ったライカⅢbの方を多く使っていました。もともと付いていたのはシュナイダーのクセノン5cmF1.5でしたが普段使っていたレンズは富士越で買った50mmF2.8のエルマーでした。G先生にこのレンズはハズレだったねとよく言われました。富士越を通してシュミットで点検していただきましたが良くはなりませんでした。

 

つぎのメモカメラは・・・順序が違うかも知れませんが、ジャスピンコニカの愛称のコニカC35AF、このカメラは家内の親友の結婚式の日1977年11月30日に発売になりました。前日カメラやさんから届いたこのコニカC35AFを持ってその結婚式に出席しました。つぎがキャノンA1でしょう。1978年4月に長女が生まれ、そのスナップ用に35mmF2、85mmF1.2の2本のレンズ、ストロボ199Aを一緒に揃えました。ニコンF2も2台持ってはいましたが子供用にキャノンA1を購入しました。ところが長女が生まれたとき私は今でも反省している一言を言ってしまいました。家内はその一言に怒って退院後半年の間実家に戻ったきりになってしまいました。私はこの間に出た給料とボーナスでライカM5を買ってしまいました。レンズはライカM4Mに付けていた50mmと35mmのズミルックスです。ライカM5はカメラを縦につるすタイプで非常に使いやすく、この後、ミノルタα9000、キャノンEOSRT、ニコンF5も縦につるして使いました。その後メモカメラらしいものはとくになく、1988年のLHSA(ライカヒストリカルソサエティ オブ アメリカ)の20周年記念のライカM6が散歩用カメラとなりました。このカメラは初め20台限定で作られるという案内がだされましたが、期日までに支払いを済ませば希望者全員に頒布するということになったものです。結局43台が作られたようです。私のM6のナンバーは20-01、つまり1番でした!普通ならこういう番号は会長とか顧問とかが初めから取って置くのではないでしょうか。なんというフェアな考えをもったクラブでしょう!このことをLHSAの機関誌ヴューファインダーに投書したところ掲載されそのしばらくあとにカナダの会員から「知人が持っているM4-PとR-4のエベレストを買わないか」と手紙を頂きました。私はカメラは使うもので飾っておくものではないと考えておりましたので、一度は要らないと返事を出しました。ところが「知人の会社が倒産してどうしても処分したい。ただし箱から一度も開けていないので写真はない。」というのです。ライカの一眼レフは使うには良いでしょうが、どう考えても私は使いません。それでM4-Pだけ引き取ることにしました。」着いたのは まったく開けていないM4-Pとこのときの(カナダのエベレスト登山隊の成功)記念のポスターでした。このポスターは後年ロンドンに行ったときにP.H.vanHasbroeckにあげてしまいました。たいていの方と同様に私も普段はカメラは使うために買いますがこのM4-Pともう一台使う目的がないのに買ったことがあります。それは カメラショー20周年記念に日本の各メーカーが各20台の限定で東京と大阪の会場で販売したもので 私はニコンFEを購入しました。このボディは黒色塗装で茶色のトカゲ革仕様、裏ブタにはTT-1~TT-20のプレートが貼られていました。このカメラも一度も使ったことがありません。このLHSA M6ボディには35mmズミルックスアスフェリカルをつけてずいぶん使いました。私がこの会LHSAに入ったのは1979年9月22日に開かれた中川一夫さんの写真工業社刊「ライカの歴史」出版記念講演会でたまたまお隣に座っておられた大阪からお見えのTさんに勧められたからです。サンノーカメラのスタッフの方々の協力で開かれました。講演会の後サンノーカメラで売られているライカを見ましたが、その中にスウェーデン軍用の黒のⅢfが50mmレンズつきでありました。店を見た後希望者は中川さんと共に山王飯店で食事をしました。当日私はライカM4Mに35mmのズミルックスを付けて講演会に出席しました。モーターの具合が悪く(歯車が噛んでしかまい)動かなくなってしまっていたので(?)使っている最中にモーターが止まってしまったらどうしたらいいでしょうかと尋ねたところ「簡単だよ 電池をプラスマイナス逆にしてシャッターを切ればいい」と教えていただきました。実際に家に帰ってから試しますと見事に生き返りました。このモーターはもともとM2のモーターライズドボディについていたもので、M4Mと両方のボディにつけて使っていました。評判はよくありませんでしたが私は非常に気に入っていてこれも随分使いました。ちなみに35mmズミルックスも開放で逆光のときのゴースト、フレアーでひどく評判が悪いですが私がライカを気に入った第一の理由はこのレンズの高性能にあります。光が一点に集まる、毛糸の質感、赤色の発色すべてに驚いたものです。ニコンF2に初めて多層膜コーティングされた発売直後の35mmF1.4のニッコールを付けて使っていましたが、始めのレンズはガラスの中にオカリナのような形の気泡が一個入っていました。熔融が難しい新種ガラスのために気泡ができる、性能には問題ない。と言われましたが買った店で取り替えていただきました。この店は東京駅の地下街にあり初めて寄ったところでした。たまたまショーウィンドウを覗いたらそのレンズが置いてあったのです。おもわず買ってしまいました。このレンズでもズミルックスのような感動は得られませんでした。確か中川さんがあの講演会で「非球面にしなければ ゴーストは消えないよ」と言っていたと思います。それから20数年後、2枚の研削非球面レンズを使った35mmズミクロンアスフェリカルが登場しました。このレンズは 現行製品であるのにとくに手に入れるのが困難で、新橋のウツキカメラでシーベルの新品を見つけ即購入しました。それ以来 あのLHSA20周年記念のM6につけて愛用していました。

LeicaM6LHSA20周年記念ボディ20-01 です。
上の写真は 2001年12月9日、小児歯科の同門会の帰り、御茶ノ水から日本橋まで このカメラを下げてぶらぶらと歩きました。そのとき三越の前で撮ったスナップです。絞りは1.4の開放です。
一部分を拡大しました。手持ちで ごく普通に撮りました。従来の35mmズミルックスではこのようには撮れなかったでしょう。このレンズが好きです。
docomo SO505iできょう(2004年3月20日に)撮りました。
なかむら小児歯科医院
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